お昼、実家の武田屋商店にて、落ち椿の中に咲くスハマソウ。
いわゆる駄菓子屋のガミガミおばちゃんが迎えてくれるお店。
貴重ですよ。
年二回ある家族のお食事で、お隣のなつ味に来ました。
ふぐとかにが美味しいお店です。
ふぐ刺しをかっ食らう五歳児。
私はこちらの蟹飯がたまらなく好き。
紅梅の季節のカニ。
宇宙人(名前はまだ決めてない)とのこと。
夕方、お庭の改修工事二回目の打ち合わせへ、向かいながら少し寄り道してきました。
(幾つかの写真はクリックで拡大します)
海士有木にある八幡神社より見る小湊鐡道。
以前は竹に覆われ消えていた参道が綺麗になり、こんな景色がみられるようになっていました。
八幡神社の社殿が建つ地は有木城主郭址となります。
現住所は市原市海士有木(あまありき)、旧地名に田郭(たぐるわ)の字がみえます。
おそらく外曲輪(とぐるわ)が転訛したものです。
主郭北方に残る土塁。古い文書には蟻木城ともあります、里見氏の時代の遺構です。
大正五年発行の市原郡誌には本城、中城、城手之下といった古い字名がみえますが、それらの地名がどのあたりを指しているのか解らず。
有木城址からやや南に見えるこんもりした山は市西小学校。
こちらは小野山(おんやま)城址と推定されています。
前述の市原郡誌には小野修理亮居城の伝承の記述があります。
ただ、堀も含め小学校建設で地形は改変されており、戦前まで小学校に保管されていたという城の縄張り図も行方不明となり、真相は闇の中。
武士城址と推定されている宝泉寺の建つ台地。
後述の建市神社あたりに、かつては堀ノ内や番場、腰巻といった字が見られました。
確たる遺構が見つかれば、まさに風雲!たけし城となります。
宝泉寺内には古い五輪塔や宝篋印塔も散見されます。
建市神社内に置かれた江戸時代初期の各石仏には武子村の名がみえます。
地名の変遷が気になりますね。
今回は訪れませんでしたが、辺りは武士古墳群という古墳密集地です。
推定15基ほどあるそうですが、全貌は解らず。
最後に打ち合わせ予定のお宅すぐ近くの新堀城址。
城域がどこまでか不明だけど、かつての古地名の字に塙(はなわ)、花輪下とありました。
ただ、城と言うよりは領主の館のような存在だったかもしれません。
写真にある法光寺は、甘茶を振る舞うあまちゃ寺としても知られています。
昨年、紅葉園式田さんの建仁寺垣づくりのお手伝いに行ったなぁ~。
いわゆる地元で三和と呼ばれるあたり。
この地図上だけで推定を含めて8カ所の城郭、館跡があります。
んなアホな!という数字ですが、市原市は面積が大きいということを差し置いても、他の市町村に比べて群を抜いて多く、およそ130カ所です。
当たり前ですが、それぞれの時代は少しずつ違います。
それだけ、群雄割拠の土地だったということでしょうか。
この辺りについては以前のブログ、歴史探訪や美しい雪景色でも触れています。
ただ、どの場所も市原市らしく、案内看板等は全く無い!ので悪しからず・・。
また、私有地であることが多いのでご注意を。
城館探索ゴニョゴニョツアーとか楽しそうですね。
色々な文献が参考になりますが以下がオススメです。
小高春雄(1999)『市原の城』発行:小高春雄・印刷:正文社
児玉幸多・坪井清足(1980)『日本城郭大系第6巻:千葉・神奈川』新人物往来社
府馬清(1977)『房総の古城址めぐり上巻:安房・上総国』有峰書店
千葉県教育委員会編(1996)『千葉県所在中世城館跡詳細分布報告書2:旧上総・安房国地域』千葉県教育委員会
そんなこんなで打ち合わせのN様宅にて。
この塚も城郭関連の何かか・・!とか思ってしまいます。
植栽を含めた工事は6月以降となりますが、改めてよろしくお願いいたします。
ではまた~。
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